2016年2月21日日曜日

コジモとロレンツォ、盛期ルネサンスのフィレンツェ外交

岩波書店、ジーン・A.ブラッカー著の『ルネサンス都市フィレンツェ』を先日読み終えたのですが、あるひとつのトピックが頭に残り続けていました。7章エピローグにあった、コジモとロレンツォの外交についての一節です。
長くなりますが以下に引用します(可読性の為に適宜改行を挿入)。
ローディの和以降のメディチ外交は、その防衛的志向、機敏性と柔軟性、そしてイタリア半島におけるバランス・オヴ・パワーの維持に貢献したことで称賛されてきた。この好意的評価にはいくらか条件をつけねばならない。一五世紀後半におけるフィレンツェの対外政策は、過去には非常に重要であった食料供給、市場拡大、海上販路の確保などの物質的動機にも、ヴェネツィア共和国との友好関係といったイデオロギー的関心にも、ほとんど左右されることがなかった。

その代わりに、メディチ家は個々の君主との個人的な信頼関係を重視し、惜しみない贈物と趣向をこらした歓迎で絆を強化しようとした。こうした個人外交は相互の利益になる場合にはうまくいくことが多かった。たとえば、メディチ家のフランチェスコ・スフォルツァへの貸付は、後者がフィレンツェに派兵して体制転覆を阻止したことで相殺された。

しかし、このシステム――イタリア諸国の統治者シニョーレの信用ならない忠誠心と彼らの不確実な権力保持に基礎をおく――は極度に不安定なものであった。この個人的関係への依存が、今ふりかえると、ロレンツォ時代のイタリア外交が表面的で、実のある成果にかけていたように見える理由を説明してくれる。ロレンツォ・デ・メディチは完璧な手腕でこのゲームに興じ、彼の個人的な威信がフィレンツェ外交の成功の重要な要素となった。

しかし彼は同盟者に武断政治パワーポリティクスの現実に目を向けさせる努力を怠っていた。事実、彼がこの個人外交の弱点と欠陥を自覚していたという証拠はないが、それは一九四九年以降に非常にはっきりと顕在化するのである。  p.318
コジモとロレンツォの外交は好意的な評価が多く、マイナス面の指摘はあまり見た記憶がありません。欠点についての指摘は新鮮で考えさせられました。

他国の指導者との私的関係にもとづいた非公式外交であるがゆえの脆弱性について、それ以前の共和国外交との差異について把握していない為に、指摘にどの程度の正統性があるかの判断は難しいですが、ロレンツォの後継者であるピエロのありさまをみると、一定の説得力を持っているように思えます。

ピエロ追放後の共和国政府の外交ですが、イタリア半島外の強力なプレイヤー(フランスやスペインなど)が参加したという環境の激変はあるにせよ、コジモ・ロレンツォ時代のような存在感をみせることはありませんでした。
これまでブログで紹介してきたマキァヴェッリは、共和国政府の官僚として外交の一端を担いましたが、著作や手紙、政府への報告書の中で政府の外交方針・施策の拙劣さ、軍事力の裏付けに乏しいフィレンツェ外交の右顧左眄ぶりを厳しく批判しています。

ここからは余談。
ならば、どのような方策をとれば、事態が改善したのか。イタリア戦争以降の醜態をさらさず、より実効力をもった軍事力とそれに基づいた外交を展開することが出来たのか。
マキァヴェッリが組織した市民軍が1世紀ほど早く編成され、一定以上の自前の軍事力を持つことができたらどうだっただろうか。
他の同時期の北・中部イタリアの有力国家(特に、同じ共和国であり、陸軍は同じ傭兵に頼っていたヴェネツィア)とは何が違ったのか。
などなど頭に浮かんだまましばし考えに耽ってみたのですが、いかんせん知識も不足しすぎでまとまらないままでした。

市民軍は危機の時代で傭兵による失敗を重ねたという、負の実績あって成立したことだろうと思うのでまず無理そうだし、外交についてもヴェネツィアほど外交に重きを置いていなかったような気もするので、こちらの改善も難しそうなど、どうにもならない感は湧き上がってきます…。