2015年11月3日火曜日

ちくま新書『近代中国史』の感想

今回の読書は前回の『「反日』中国の文明史』から引き続き、同じ中国もの。こちらは経済メインという違いはあれど、長期視点で中国文明の構造を読み解き、現在に至るまでの過程を解き明かしていくという点で同じアプローチといえます。

ちくま新書『近代中国史』

筑摩書房 岡本隆司著

ある程度の中国史の知識はあった方がわかりやすいとは思いますが、無ければ理解不可ということもなく、一般向け対象の新書として及第点といえると思います。

経済と題についている通り経済構造の解説が主ですが、なぜそのような構造が成立していったのかを探求するうえで、黄河流域と長江流域という大きく異なる環境による発展の違いや、儒教を含む文化面への考察など、純粋な経済以外の点についてもある程度目配りがされた内容となっています。

士大夫と庶民、官と民という二重構造によって、お上と一般民衆が乖離した体制、政府が社会保障を行わず(ある種の小さい政府といえます)、それらの機能を補完していた多数の民間の中間団体(血族による結合である宗族、宗教団体、同郷同業団体である幇や行など)が社会に不可欠だったという状況については多少知識はありましたが、多数の例を図や数字によって具体的に示されるとインパクトがあります。
これらによって生じた政府への懐疑と国民という一体感・信頼感の欠如は、近代国民国家の形成による産業革新や富国強兵を目指すうえで大きな障害となりました。

本書では用いられていないですが、中国における政府と庶民の間をあらわすものとして「上に政策あれば下に対策あり」という文が有名です。先述の政府とそれを構成する上層エリートと庶民の乖離が、現代に至っても解消しきれていないことを示す一例といえるかと思います。

肝心の経済構造についての議論ですが、あいかわらず経済は特に苦手でまとめにくいので、各自でご確認をお願いしたいと思います。
地域間決済の銀と地域内決済の銅銭や紙幣という構造については、岩波の『貨幣システムの世界史』を参照されるのも良いかと思います。本書にあらわれた近世・近代の中国はもちろん、それ以外の地域・時代の例についても参照できて、より深く掘り下げて理解したい方にはおすすめです(こちらの本はより専門的で難しくはありますが)。

以上本書について興味深かった点、面白かった点を(大雑把かつ適当ではありますが)紹介しました。

大筋とさほど関連のない些細な点ですが、若干気になった部分があったので記述しておきます。
「日本で経済成長といえば、「ものづくり」であり、技術開発である。「世界の工場」となった中国でも、もちろん製造業が盛んではあるけれども、創意工夫を旨とし先端技術を競う「ものづくり」を中国で想像することはおよそできない。自前の技術だと言い張って運行をはじめた中国版新幹線・高速鉄道は、その好例である。
そこからすぐ連想するのは、技術やパテント、あるいは著作権を尊重しない態度であり、いわゆる「パクリ」や海賊版が横行する現状も、その根源は同じだろう。それでどうして高度成長が可能だったのか。日本人の感覚では、どうにもわかりにくい。」p.12
引用部分は中国と「パクリ」に関するよく見られるタイプの言説ですが、安易な日本との比較論は妥当性を欠くような気がしてなりません。「現在の」日本では著作権の尊重は当然であり、技術・デザインなどの剽窃は非難されてしかるべきと考えられていますが、「高度成長」期の日本においても果たしてそうだったでしょうか。

文献を引用して指し示すことができないので説得力に欠けるとは思いますが、日本の製品がブランドを確立する以前においては、アメリカやヨーロッパ諸国の先行するブランドの模倣はしばしばみられたことだったように思います。市場に受け入れられている商品のコピーを廉価な労働力で製造することは近年の中国のみならず日本の成長期においてもみられた現象であり、さらに広く世界を見渡しても他に例を挙げることが可能な、後進国の製造業において普遍的にみられることなのではと考えます。

製造業以外についての著作権の尊重に関しても同様です。30年以上前の話ですが、会社で使用する事務用アプリの複数台使用は当たり前で、1本購入した後はコピーを配布し、事務所内の他のPCでも使用していました。使用台数分のライセンスを購入せずに済ませていたのはごく普通の「感覚」であったそうです。娯楽用途であるPCゲームソフトにおいてもコピーが蔓延していたのは、一昔前のゲーム事情にある程度関心がある方はご存知だと思います。

もちろん、現代のように著作権にたいして意識が高くなった時代における中国の例と日本の成長期を同じ基準で比較するのはおかしいという指摘は正当と思いますし、中国における著作権問題を免罪したいわけでもありません。それでも、引用部のような、日本人と中国人の感覚の違いという、印象論めいた安易な比較への反証として、一定の価値があると考えます。

この節を記述していて思い出したのですが、『「反日』中国の文明史』にも同じようなニュアンスの言説が載せられていたような(ガンダムコピー云々だったかな?)。日中の差異を強調するうえでわかりやすく、使いやすいのかもしれませんが、問題のほうが多い説明の仕方のように思います。



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