2016年11月12日土曜日

マキァヴェッリの市民軍とその敗北

マキァヴェッリの軍事的見識について、過去にweb上で「ローマかぶれで時代錯誤な市民軍を組織した」というような否定的な意見を目にすることがしばしばありました。
その際に例として示されるのは、彼が編制したフィレンツェ市民軍の敗北であったように思います。
彼の軍事的見識についてはさまざまな議論があると思いますが、webにて市民軍の敗北を例示するさいに、具体的な内容が語られていたことを見たことがありませんでした。
(軍事的見識についての批判的議論は、フィレンツェの防衛強化にマキァヴェッリが携わった際の報告書を中心に検討が行われている、『軍事技術者のイタリア・ルネサンス ――築城・大砲・理想都市――』の第5章「築城術と「国家の防衛」戦略」が参考になると思います)

では実際どうだったのだろう?と気になっていたので、自身の知識が及ぶ範囲で、市民軍の敗北であるプラートの戦いについて調べてみようと以前から考えていました。

まずはじめに。どういう環境で行われた戦いか、という点です。
中世末期から近世初頭のイタリアをめぐる国際情勢は複雑を極め、同盟相手がころころと猫の目のように切り替わるほどの混沌とした状態でした。
最終的にはフランスが敗退しハプスブルク勢力がイタリアの中心的支配者となるのですが、あまりに複雑な経緯なため(私自身きちんと説明しきれない)、イタリア戦争などのキーワードで調べていただければと思います。

フランスとフェラーラ公国に対して、スペインを中心とした教皇・スペインなどの連合軍が衝突したラヴェンナの戦いで、フランスが勝利を収めます。勝利したフランスですが、有能な指揮官ガストン・ド・フォアが戦死したこともあり、勝利を有効に活用できませんでした。
一方、敗北したスペイン兵を指揮するナポリ総督ラモン・デ・カルドーナは、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチとともにあり、(当時フィレンツェ共和国から追放されていた)メディチから軍資金の提供を受け、彼らメディチの利益のためにトスカーナ方面へ軍を向けました。
結果、フィレンツェ共和国の領域内でも重要な都市プラートにおいて、フィレンツェの防衛軍と衝突することになりました。

いままで見た本やwebの情報では、二度目のスペイン兵の攻勢によって城壁を乗り越えられた市民軍が敗北したという事はわかりましたが、具体的な防御側の兵数が不明でした。
スペイン兵はおよそ5,000程度(多くて8,000ほど?)とされている様に思いますが、プラートの防衛側兵力についてははっきりとした記述があまりなく、長らく気になっていたのもその点でした。

ロベルト・リドルフィが著した、定評のあるマキァヴェッリについての伝記『マキァヴェッリの生涯』を参照するのが良いかな、と思ったりはしていたのですが、お値段が高くて手が届かず。
近頃、図書館による貸出が可能なことに気がついて借りることができたので、プラート関連部分をざっと読んで、以下に引用してみたいと思います。

引用中、〔 〕は翻訳者の補足、増補第三版は本書が増補されたさいに追加された文章を意味します。
その時、総督はプラートに接近していた。プラートは三千の兵に守られていた。総督の最初の攻撃は撃退された。この敵軍は飢えていて〔しかも〕補給もできずにいたから、もし執政長官が大量のパンで取引すれば和平を得られたかもしれなかった。マキァヴェッリが書いているところでは、「賢人たち」(恐らくは――彼のいつもの書き方を翻訳するなら、すなわち〔〈増補第三版〉〕――彼自身)がそうするよう促した(29)。しかし長官は、臆病者がよくなるように突然、勇敢になり過ぎてそれをはねつけた。敵軍の二度目の攻撃にプラートの城壁は耐えられなかった。〔フィレンツェ〕市民軍の歩兵の心も耐えられなかった。彼らはそれまで敵兵とまったく対面したことがなかった。〔それなのに、〕ラヴェンナの戦いでの敗北から〔再起して〕まるで勝者のように現れた恐ろしいスペイン歩兵と対決する羽目になったのだ(30)。プラートは狂ったような略奪にあった。教皇使節の眼前で無数の殺戮、涜聖、強姦が繰り広げられた。

『マキァヴェッリの生涯』pp.183-184

執政長官はマキァヴェッリの上司でフィレンツェ共和国の指導者ピエロ・ソデリーニを指します(執政長官はしばしば正義の旗手と訳される「ゴンファロニエレ・ディ・ジュスティッツァ」です。)。
原注(29)は「マキァヴェッリが書いているところでは~そうするよう促した」という内容が記されたマキァヴェッリの手紙についての議論です。ある婦人(淑女)あての(1511年9月以降と推定される)手紙で、宛先については諸説あり、メディチの貴婦人ともされますが、本題にあまり影響がないので割愛。
原注(30)はプラートの防衛兵力に関わり重要なので、そのまま引用します。
マキァヴェッリ自身が、どんな気持ちでかは神のみぞ知るところだけれども、「ある婦人へ」(a una Madonnna)――〈増補第三版〉では「ある淑女へ」(a una gentildonna)――の手紙の中で、「プラートで我々の兵士が見せた臆病」について書いている。市民軍に強く反対していたグイッチャルディーニ(Storia d'Italia,ediz.cit,vol.III,pp.17-29,21)を初めあらゆる歴史家が、この都市の防衛のまずさはマキァヴェッリの〔市民軍の〕大隊のせいだとしている。しかし本当のところ、ここでの防衛軍は三千名(四千名と書いている者もある)のうち、〔市民軍の〕大隊は一千名だけだった。Cfr.Cambi,Istorie cit,p.323

『マキァヴェッリの生涯』p.431
以上の引用から、リドルフィはプラートの防衛兵数は3,000(多くても4,000)、うち市民軍は1,000と考えているようです。
その他web上の情報では二千とする意見もあるようですが、はっきりと出典をしめす事ができないので参考程度としておきます。
(気になる方はリンク先にある私の過去ツイート、こちらこちらを御覧ください。)

攻撃側スペイン兵5,000に対して防衛側3,000という数字をみると、当時の重要都市には市壁がめぐらされている点を考慮すると、防衛側有利と考えられなくもありません。

しかし、軍隊としての質を考えると、そう単純に評価して良いか。考慮すべきことがあると思われます。

フランスに敗北したあととはいえ、当時の有数の陸軍であったスペイン軍と、編制開始から数年は経ったとはいえ、発足してからさほど経験を積んでおらず、フィレンツェの領域内の農村地帯から徴兵された市民軍。質の差は歴然だと思われます。

こういった状況を考えると、防御側という地の利を差し引いても、一概にプラート防衛側が有利であったとは言えないと思います。

そして、この敗北をもってマキァヴェッリの市民軍を失敗と評価し、ひいては彼の軍事的見識を判断するのは、果たして正しいのか。冒頭で記したような議論をする際には、こういった文脈を考えた上で、判断や例示としていただければ、と思います。

(とはいえ、かくいう私自身がマキァヴェッリへのシンパシーという強力なバイアスをもっていることは確実ですので、読者各位におかれましてはその点考慮いただきたく、という腰砕けな注意喚起をもって、当記事を終わります。)

追記。
当記事をアップロードしたあとも手元にある本を何冊か流し読みなどしていたのですが、参考になる記述があった為に以下に引用したいと思います。

マキァヴェッリの『戦争の技術』(Dell' arte della guerra 『戦争論』とも)における、市民軍制を巡る議論について。台本形式で話が展開されるのですが、主な語り手であるファブリッツィオ・コロンナ(マキァヴェッリの代弁者とも考えられる)は次のように語ります。
徴兵制反対の理由として経験不足と強制が挙げられるが、経験のなさは乏しい気力を生み、強制は不満を生むと見るのも確かなことだ。しかし、気力と経験とを彼ら市民兵〔国民兵〕に体得させるには、彼らに武器を取らせ、訓練し、組織するそのやり方次第なのであって、これからの話で分かっていただけよう。

…こうは言っても、それで敵に打ち負かされることがないわけではない。なぜなら、ローマ軍〔徴兵制〕は幾たびか叩かれたが、結局ハンニバルの軍隊〔傭兵軍〕も敗れ去ったからだ。こんなわけで、絶対に負けないと約束できるような軍隊を誰も組織だてることなど不可能である。それゆえ、貴君の言われる賢者たちこそ、一度敗れたからと言って(19)、これを無益だと思う必要はない。むしろ、負けることもあるのだから、勝つこともあるとして、どうして敗れたのかについて対処していけばいい、と考えるべきなのだ。

…前にも言ったように、市民軍制〔国民軍制〕を非難するのではなく、それを再度調整していく方向で準備せねばならなかったのだ。…自国の市民や臣民を屋台骨とする軍隊とは法制度に基づくもの、それは何ら損害をもたらさず、むしろいつでも有益なのであって、こうした軍隊を通じてこそ、それを持たないところよりもずっと長い間、都市は腐敗から守られるのだ。

『戦争の技術』pp.40-41
「貴君の言われる賢者たち」とは、引用部より前に提示される、「熟練兵でないこと、矯正されて従軍せざるを得ないことの二点から市民軍制は無益である」といった主張をする人びとを指します。
訳注(19)「一度敗れたからと言って」は、一度の敗北とはプラートにおけるフィレンツェ市民軍の敗北についてを指すという注釈です。

引用した『戦争の技術』以外の著作、『君主論』や『リウィウス論(ディスコルシ)』などでも同様の主張は行われています。
傭兵軍(や自国に基づかない外国の同盟軍など)に対する市民軍の有用性は彼の主張の中でも有名であり、彼がなぜそう考えそうした施策を行ったのかは、当時の社会と彼のおかれた環境を踏まえずには、簡単には評価できないものだと考えます。



 

2016年2月21日日曜日

コジモとロレンツォ、盛期ルネサンスのフィレンツェ外交

岩波書店、ジーン・A.ブラッカー著の『ルネサンス都市フィレンツェ』を先日読み終えたのですが、あるひとつのトピックが頭に残り続けていました。7章エピローグにあった、コジモとロレンツォの外交についての一節です。
長くなりますが以下に引用します(可読性の為に適宜改行を挿入)。
ローディの和以降のメディチ外交は、その防衛的志向、機敏性と柔軟性、そしてイタリア半島におけるバランス・オヴ・パワーの維持に貢献したことで称賛されてきた。この好意的評価にはいくらか条件をつけねばならない。一五世紀後半におけるフィレンツェの対外政策は、過去には非常に重要であった食料供給、市場拡大、海上販路の確保などの物質的動機にも、ヴェネツィア共和国との友好関係といったイデオロギー的関心にも、ほとんど左右されることがなかった。

その代わりに、メディチ家は個々の君主との個人的な信頼関係を重視し、惜しみない贈物と趣向をこらした歓迎で絆を強化しようとした。こうした個人外交は相互の利益になる場合にはうまくいくことが多かった。たとえば、メディチ家のフランチェスコ・スフォルツァへの貸付は、後者がフィレンツェに派兵して体制転覆を阻止したことで相殺された。

しかし、このシステム――イタリア諸国の統治者シニョーレの信用ならない忠誠心と彼らの不確実な権力保持に基礎をおく――は極度に不安定なものであった。この個人的関係への依存が、今ふりかえると、ロレンツォ時代のイタリア外交が表面的で、実のある成果にかけていたように見える理由を説明してくれる。ロレンツォ・デ・メディチは完璧な手腕でこのゲームに興じ、彼の個人的な威信がフィレンツェ外交の成功の重要な要素となった。

しかし彼は同盟者に武断政治パワーポリティクスの現実に目を向けさせる努力を怠っていた。事実、彼がこの個人外交の弱点と欠陥を自覚していたという証拠はないが、それは一九四九年以降に非常にはっきりと顕在化するのである。  p.318
コジモとロレンツォの外交は好意的な評価が多く、マイナス面の指摘はあまり見た記憶がありません。欠点についての指摘は新鮮で考えさせられました。

他国の指導者との私的関係にもとづいた非公式外交であるがゆえの脆弱性について、それ以前の共和国外交との差異について把握していない為に、指摘にどの程度の正統性があるかの判断は難しいですが、ロレンツォの後継者であるピエロのありさまをみると、一定の説得力を持っているように思えます。

ピエロ追放後の共和国政府の外交ですが、イタリア半島外の強力なプレイヤー(フランスやスペインなど)が参加したという環境の激変はあるにせよ、コジモ・ロレンツォ時代のような存在感をみせることはありませんでした。
これまでブログで紹介してきたマキァヴェッリは、共和国政府の官僚として外交の一端を担いましたが、著作や手紙、政府への報告書の中で政府の外交方針・施策の拙劣さ、軍事力の裏付けに乏しいフィレンツェ外交の右顧左眄ぶりを厳しく批判しています。

ここからは余談。
ならば、どのような方策をとれば、事態が改善したのか。イタリア戦争以降の醜態をさらさず、より実効力をもった軍事力とそれに基づいた外交を展開することが出来たのか。
マキァヴェッリが組織した市民軍が1世紀ほど早く編成され、一定以上の自前の軍事力を持つことができたらどうだっただろうか。
他の同時期の北・中部イタリアの有力国家(特に、同じ共和国であり、陸軍は同じ傭兵に頼っていたヴェネツィア)とは何が違ったのか。
などなど頭に浮かんだまましばし考えに耽ってみたのですが、いかんせん知識も不足しすぎでまとまらないままでした。

市民軍は危機の時代で傭兵による失敗を重ねたという、負の実績あって成立したことだろうと思うのでまず無理そうだし、外交についてもヴェネツィアほど外交に重きを置いていなかったような気もするので、こちらの改善も難しそうなど、どうにもならない感は湧き上がってきます…。


2016年1月18日月曜日

通俗解釈のマキァヴェッリと、実際のマキァヴェッリ

昨今はあまり集中して読書ができず、何冊か目を通してはいるものの読了しきっておらず、ブログの更新も途絶えていました。
本日twitterにてセンター試験の世界史の話題があったのですが、今回はマキァヴェッリに関連する設問があったため、問題の解答・解説にてマキァヴェッリに触れられていました。
そこで目の当たりにしたのが恒例の通俗的なマキァヴェッリに対する解釈で、仕方ないと思いつつも、そろそろより実際に近いと思われる姿が広まらないかなと、ややげんなりしつつ思ったのでした。

その後しばらくたってから、これまたtwitterにて誤情報の訂正に関する話題(こちら)をみかけました。誤情報を訂正するのも、やり方を工夫しないと逆効果になりかねないので、一工夫して情報を提供すべしとのことです。

紹介されていた効果的な誤情報の訂正方法にのっとった、マキァヴェッリの通俗解釈へのカウンターを簡単でもいいからまとめてみるのも面白いかなと思い、モチベーションがあるうちに手早く記事にしてみました。
専門的な知識があるわけではなく、また、知識の不足のみならず認識があやふやなところもあるかもしれませんが、ひとまず形にしてみようと思います。
内容に間違いや修正すべき点がありましたら、コメントやtwitterでぜひご指摘を。

なお、過去に世界史リブレット人の『マキァヴェッリ』の感想をまとめているのでそちらも参照していただければと思います。

先ほど言及した、誤情報のより効果的な訂正を引用しつつ、そこからマキァヴェッリにあうように文章を考えてみます。

効果的なデバンキング法
  • コアな事実:反論は事実を強調すべきで、誤情報を強調すべきでない。
  • 直接な警告:誤情報に言及る前に、文字もしくはビジュアルで、次に各情報が間違っていることを注意喚起すべきである。
  • 代わりとなる説明:デバンキングによってできた隙間を埋める必要がある。誤情報が間違っている理由についての、代わりとなる原因の説明や、さらには、そもそも誤情報の宣伝者が何故に宣伝しているのかを提示することで達成できる。
  • 図:コアな事実は可能ならグラフィカルに提示すべきである。

コアな事実:

「マキァヴェッリとは」
15世紀末から16世紀前半にかけて活躍した、フィレンツェ出身の人物。フィレンツェ共和国で官僚として政治・外交など多方面に活躍したが、政変により失職。失職後に有名な『君主論』『リウィウス論(ディスコルシ、政略論とも)』などを著す。
官僚時代はもちろん、失職後も政治に対する興味や関心が薄れない人生だったが、それ以外にも『マンドラーゴラ』などの喜劇の台本を著したり、私生活では冗談が多い愉快な手紙を書き残していたりと、多彩な一面をもっている。

「『君主論』とは」
君主がとるべき方策を簡潔かつ平明な文章で表現した、政策提言かつ君主処世訓。地盤が盤石であり、代々の王の政策を継承すれば良い世襲の君主と、地盤が脆弱で危地に陥りやすい新君主それぞれへの言及がある。おもな対象は新君主であるために、非常事態ではモラルにとらわれない非常の策をもちいるべしといった提言も多く、後世に「権謀術数を勧める悪徳の本」という誤解を招くもとにもなった。

直接な警告と代わりとなる説明:

「権謀術数という”誤解”」
権謀術数を勧め、著者本人も同様の手法を用いたあくどい人間であるという解釈がなされてきたが、本人はむしろ立ち回りが上手い方ではなく、政変の際にはあえなく失職。
失職後の就職活動もなかなか成功しなかった(もちろん本人の資質だけではなく、環境が悪かったという点は当然ある)。

「君主政を主張?」
『君主論』だけが飛び抜けて著名なために君主政の推奨者と思われがちであるが、共和政を強く指向した人物という解釈がマキァヴェッリの専門家の中でも有力。
実際、マキァヴェッリは「フィレンツェには共和政が適している」との提言を残してもいる。
政治思想の著作として、『君主論』ほどではないがあるていど知られている『リウィウス論』があるが、こちらではリウィウスのローマ史を中心に、共和政を論じている。

「イタリア統一を予見した愛国者?」
『君主論』は「イタリア統一」を熱望したとも読める文章で締められているため、後世に近代ナショナリズムにひきよせた解釈がなされることも多いが、近代的な価値観のバイアスで歪められた解釈であると考えられている。
マキァヴェッリにとっての「我が国」はフィレンツェ共和国であり、現代の統一イタリアを構想したとは考えにくい。「イタリア人の力を結集して外敵からの解放を」というメッセージは当時しばしば主張されており、外敵の追放・力の結集=ナショナリズムにもとづく近代国家ではない(例えば、イタリア半島に割拠していた複数の有力国家の連携・同盟による外敵の追放でもことは足りる)。


図でグラフィカルにというのは私にはセンスが無いので割愛します。
とりあえずざっくりとまとめてみましたが、果たしてこれがマキァヴェッリに関する誤解を解く一助となるかどうか。
甚だ微力とは思いますが、やらないよりはマシなはず(と思いたい)。