2016年11月12日土曜日

マキァヴェッリの市民軍とその敗北

マキァヴェッリの軍事的見識について、過去にweb上で「ローマかぶれで時代錯誤な市民軍を組織した」というような否定的な意見を目にすることがしばしばありました。
その際に例として示されるのは、彼が編制したフィレンツェ市民軍の敗北であったように思います。
彼の軍事的見識についてはさまざまな議論があると思いますが、webにて市民軍の敗北を例示するさいに、具体的な内容が語られていたことを見たことがありませんでした。
(軍事的見識についての批判的議論は、フィレンツェの防衛強化にマキァヴェッリが携わった際の報告書を中心に検討が行われている、『軍事技術者のイタリア・ルネサンス ――築城・大砲・理想都市――』の第5章「築城術と「国家の防衛」戦略」が参考になると思います)

では実際どうだったのだろう?と気になっていたので、自身の知識が及ぶ範囲で、市民軍の敗北であるプラートの戦いについて調べてみようと以前から考えていました。

まずはじめに。どういう環境で行われた戦いか、という点です。
中世末期から近世初頭のイタリアをめぐる国際情勢は複雑を極め、同盟相手がころころと猫の目のように切り替わるほどの混沌とした状態でした。
最終的にはフランスが敗退しハプスブルク勢力がイタリアの中心的支配者となるのですが、あまりに複雑な経緯なため(私自身きちんと説明しきれない)、イタリア戦争などのキーワードで調べていただければと思います。

フランスとフェラーラ公国に対して、スペインを中心とした教皇・スペインなどの連合軍が衝突したラヴェンナの戦いで、フランスが勝利を収めます。勝利したフランスですが、有能な指揮官ガストン・ド・フォアが戦死したこともあり、勝利を有効に活用できませんでした。
一方、敗北したスペイン兵を指揮するナポリ総督ラモン・デ・カルドーナは、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチとともにあり、(当時フィレンツェ共和国から追放されていた)メディチから軍資金の提供を受け、彼らメディチの利益のためにトスカーナ方面へ軍を向けました。
結果、フィレンツェ共和国の領域内でも重要な都市プラートにおいて、フィレンツェの防衛軍と衝突することになりました。

いままで見た本やwebの情報では、二度目のスペイン兵の攻勢によって城壁を乗り越えられた市民軍が敗北したという事はわかりましたが、具体的な防御側の兵数が不明でした。
スペイン兵はおよそ5,000程度(多くて8,000ほど?)とされている様に思いますが、プラートの防衛側兵力についてははっきりとした記述があまりなく、長らく気になっていたのもその点でした。

ロベルト・リドルフィが著した、定評のあるマキァヴェッリについての伝記『マキァヴェッリの生涯』を参照するのが良いかな、と思ったりはしていたのですが、お値段が高くて手が届かず。
近頃、図書館による貸出が可能なことに気がついて借りることができたので、プラート関連部分をざっと読んで、以下に引用してみたいと思います。

引用中、〔 〕は翻訳者の補足、増補第三版は本書が増補されたさいに追加された文章を意味します。
その時、総督はプラートに接近していた。プラートは三千の兵に守られていた。総督の最初の攻撃は撃退された。この敵軍は飢えていて〔しかも〕補給もできずにいたから、もし執政長官が大量のパンで取引すれば和平を得られたかもしれなかった。マキァヴェッリが書いているところでは、「賢人たち」(恐らくは――彼のいつもの書き方を翻訳するなら、すなわち〔〈増補第三版〉〕――彼自身)がそうするよう促した(29)。しかし長官は、臆病者がよくなるように突然、勇敢になり過ぎてそれをはねつけた。敵軍の二度目の攻撃にプラートの城壁は耐えられなかった。〔フィレンツェ〕市民軍の歩兵の心も耐えられなかった。彼らはそれまで敵兵とまったく対面したことがなかった。〔それなのに、〕ラヴェンナの戦いでの敗北から〔再起して〕まるで勝者のように現れた恐ろしいスペイン歩兵と対決する羽目になったのだ(30)。プラートは狂ったような略奪にあった。教皇使節の眼前で無数の殺戮、涜聖、強姦が繰り広げられた。

『マキァヴェッリの生涯』pp.183-184

執政長官はマキァヴェッリの上司でフィレンツェ共和国の指導者ピエロ・ソデリーニを指します(執政長官はしばしば正義の旗手と訳される「ゴンファロニエレ・ディ・ジュスティッツァ」です。)。
原注(29)は「マキァヴェッリが書いているところでは~そうするよう促した」という内容が記されたマキァヴェッリの手紙についての議論です。ある婦人(淑女)あての(1511年9月以降と推定される)手紙で、宛先については諸説あり、メディチの貴婦人ともされますが、本題にあまり影響がないので割愛。
原注(30)はプラートの防衛兵力に関わり重要なので、そのまま引用します。
マキァヴェッリ自身が、どんな気持ちでかは神のみぞ知るところだけれども、「ある婦人へ」(a una Madonnna)――〈増補第三版〉では「ある淑女へ」(a una gentildonna)――の手紙の中で、「プラートで我々の兵士が見せた臆病」について書いている。市民軍に強く反対していたグイッチャルディーニ(Storia d'Italia,ediz.cit,vol.III,pp.17-29,21)を初めあらゆる歴史家が、この都市の防衛のまずさはマキァヴェッリの〔市民軍の〕大隊のせいだとしている。しかし本当のところ、ここでの防衛軍は三千名(四千名と書いている者もある)のうち、〔市民軍の〕大隊は一千名だけだった。Cfr.Cambi,Istorie cit,p.323

『マキァヴェッリの生涯』p.431
以上の引用から、リドルフィはプラートの防衛兵数は3,000(多くても4,000)、うち市民軍は1,000と考えているようです。
その他web上の情報では二千とする意見もあるようですが、はっきりと出典をしめす事ができないので参考程度としておきます。
(気になる方はリンク先にある私の過去ツイート、こちらこちらを御覧ください。)

攻撃側スペイン兵5,000に対して防衛側3,000という数字をみると、当時の重要都市には市壁がめぐらされている点を考慮すると、防衛側有利と考えられなくもありません。

しかし、軍隊としての質を考えると、そう単純に評価して良いか。考慮すべきことがあると思われます。

フランスに敗北したあととはいえ、当時の有数の陸軍であったスペイン軍と、編制開始から数年は経ったとはいえ、発足してからさほど経験を積んでおらず、フィレンツェの領域内の農村地帯から徴兵された市民軍。質の差は歴然だと思われます。

こういった状況を考えると、防御側という地の利を差し引いても、一概にプラート防衛側が有利であったとは言えないと思います。

そして、この敗北をもってマキァヴェッリの市民軍を失敗と評価し、ひいては彼の軍事的見識を判断するのは、果たして正しいのか。冒頭で記したような議論をする際には、こういった文脈を考えた上で、判断や例示としていただければ、と思います。

(とはいえ、かくいう私自身がマキァヴェッリへのシンパシーという強力なバイアスをもっていることは確実ですので、読者各位におかれましてはその点考慮いただきたく、という腰砕けな注意喚起をもって、当記事を終わります。)

追記。
当記事をアップロードしたあとも手元にある本を何冊か流し読みなどしていたのですが、参考になる記述があった為に以下に引用したいと思います。

マキァヴェッリの『戦争の技術』(Dell' arte della guerra 『戦争論』とも)における、市民軍制を巡る議論について。台本形式で話が展開されるのですが、主な語り手であるファブリッツィオ・コロンナ(マキァヴェッリの代弁者とも考えられる)は次のように語ります。
徴兵制反対の理由として経験不足と強制が挙げられるが、経験のなさは乏しい気力を生み、強制は不満を生むと見るのも確かなことだ。しかし、気力と経験とを彼ら市民兵〔国民兵〕に体得させるには、彼らに武器を取らせ、訓練し、組織するそのやり方次第なのであって、これからの話で分かっていただけよう。

…こうは言っても、それで敵に打ち負かされることがないわけではない。なぜなら、ローマ軍〔徴兵制〕は幾たびか叩かれたが、結局ハンニバルの軍隊〔傭兵軍〕も敗れ去ったからだ。こんなわけで、絶対に負けないと約束できるような軍隊を誰も組織だてることなど不可能である。それゆえ、貴君の言われる賢者たちこそ、一度敗れたからと言って(19)、これを無益だと思う必要はない。むしろ、負けることもあるのだから、勝つこともあるとして、どうして敗れたのかについて対処していけばいい、と考えるべきなのだ。

…前にも言ったように、市民軍制〔国民軍制〕を非難するのではなく、それを再度調整していく方向で準備せねばならなかったのだ。…自国の市民や臣民を屋台骨とする軍隊とは法制度に基づくもの、それは何ら損害をもたらさず、むしろいつでも有益なのであって、こうした軍隊を通じてこそ、それを持たないところよりもずっと長い間、都市は腐敗から守られるのだ。

『戦争の技術』pp.40-41
「貴君の言われる賢者たち」とは、引用部より前に提示される、「熟練兵でないこと、矯正されて従軍せざるを得ないことの二点から市民軍制は無益である」といった主張をする人びとを指します。
訳注(19)「一度敗れたからと言って」は、一度の敗北とはプラートにおけるフィレンツェ市民軍の敗北についてを指すという注釈です。

引用した『戦争の技術』以外の著作、『君主論』や『リウィウス論(ディスコルシ)』などでも同様の主張は行われています。
傭兵軍(や自国に基づかない外国の同盟軍など)に対する市民軍の有用性は彼の主張の中でも有名であり、彼がなぜそう考えそうした施策を行ったのかは、当時の社会と彼のおかれた環境を踏まえずには、簡単には評価できないものだと考えます。



 

2016年2月21日日曜日

コジモとロレンツォ、盛期ルネサンスのフィレンツェ外交

岩波書店、ジーン・A.ブラッカー著の『ルネサンス都市フィレンツェ』を先日読み終えたのですが、あるひとつのトピックが頭に残り続けていました。7章エピローグにあった、コジモとロレンツォの外交についての一節です。
長くなりますが以下に引用します(可読性の為に適宜改行を挿入)。
ローディの和以降のメディチ外交は、その防衛的志向、機敏性と柔軟性、そしてイタリア半島におけるバランス・オヴ・パワーの維持に貢献したことで称賛されてきた。この好意的評価にはいくらか条件をつけねばならない。一五世紀後半におけるフィレンツェの対外政策は、過去には非常に重要であった食料供給、市場拡大、海上販路の確保などの物質的動機にも、ヴェネツィア共和国との友好関係といったイデオロギー的関心にも、ほとんど左右されることがなかった。

その代わりに、メディチ家は個々の君主との個人的な信頼関係を重視し、惜しみない贈物と趣向をこらした歓迎で絆を強化しようとした。こうした個人外交は相互の利益になる場合にはうまくいくことが多かった。たとえば、メディチ家のフランチェスコ・スフォルツァへの貸付は、後者がフィレンツェに派兵して体制転覆を阻止したことで相殺された。

しかし、このシステム――イタリア諸国の統治者シニョーレの信用ならない忠誠心と彼らの不確実な権力保持に基礎をおく――は極度に不安定なものであった。この個人的関係への依存が、今ふりかえると、ロレンツォ時代のイタリア外交が表面的で、実のある成果にかけていたように見える理由を説明してくれる。ロレンツォ・デ・メディチは完璧な手腕でこのゲームに興じ、彼の個人的な威信がフィレンツェ外交の成功の重要な要素となった。

しかし彼は同盟者に武断政治パワーポリティクスの現実に目を向けさせる努力を怠っていた。事実、彼がこの個人外交の弱点と欠陥を自覚していたという証拠はないが、それは一九四九年以降に非常にはっきりと顕在化するのである。  p.318
コジモとロレンツォの外交は好意的な評価が多く、マイナス面の指摘はあまり見た記憶がありません。欠点についての指摘は新鮮で考えさせられました。

他国の指導者との私的関係にもとづいた非公式外交であるがゆえの脆弱性について、それ以前の共和国外交との差異について把握していない為に、指摘にどの程度の正統性があるかの判断は難しいですが、ロレンツォの後継者であるピエロのありさまをみると、一定の説得力を持っているように思えます。

ピエロ追放後の共和国政府の外交ですが、イタリア半島外の強力なプレイヤー(フランスやスペインなど)が参加したという環境の激変はあるにせよ、コジモ・ロレンツォ時代のような存在感をみせることはありませんでした。
これまでブログで紹介してきたマキァヴェッリは、共和国政府の官僚として外交の一端を担いましたが、著作や手紙、政府への報告書の中で政府の外交方針・施策の拙劣さ、軍事力の裏付けに乏しいフィレンツェ外交の右顧左眄ぶりを厳しく批判しています。

ここからは余談。
ならば、どのような方策をとれば、事態が改善したのか。イタリア戦争以降の醜態をさらさず、より実効力をもった軍事力とそれに基づいた外交を展開することが出来たのか。
マキァヴェッリが組織した市民軍が1世紀ほど早く編成され、一定以上の自前の軍事力を持つことができたらどうだっただろうか。
他の同時期の北・中部イタリアの有力国家(特に、同じ共和国であり、陸軍は同じ傭兵に頼っていたヴェネツィア)とは何が違ったのか。
などなど頭に浮かんだまましばし考えに耽ってみたのですが、いかんせん知識も不足しすぎでまとまらないままでした。

市民軍は危機の時代で傭兵による失敗を重ねたという、負の実績あって成立したことだろうと思うのでまず無理そうだし、外交についてもヴェネツィアほど外交に重きを置いていなかったような気もするので、こちらの改善も難しそうなど、どうにもならない感は湧き上がってきます…。


2016年1月18日月曜日

通俗解釈のマキァヴェッリと、実際のマキァヴェッリ

昨今はあまり集中して読書ができず、何冊か目を通してはいるものの読了しきっておらず、ブログの更新も途絶えていました。
本日twitterにてセンター試験の世界史の話題があったのですが、今回はマキァヴェッリに関連する設問があったため、問題の解答・解説にてマキァヴェッリに触れられていました。
そこで目の当たりにしたのが恒例の通俗的なマキァヴェッリに対する解釈で、仕方ないと思いつつも、そろそろより実際に近いと思われる姿が広まらないかなと、ややげんなりしつつ思ったのでした。

その後しばらくたってから、これまたtwitterにて誤情報の訂正に関する話題(こちら)をみかけました。誤情報を訂正するのも、やり方を工夫しないと逆効果になりかねないので、一工夫して情報を提供すべしとのことです。

紹介されていた効果的な誤情報の訂正方法にのっとった、マキァヴェッリの通俗解釈へのカウンターを簡単でもいいからまとめてみるのも面白いかなと思い、モチベーションがあるうちに手早く記事にしてみました。
専門的な知識があるわけではなく、また、知識の不足のみならず認識があやふやなところもあるかもしれませんが、ひとまず形にしてみようと思います。
内容に間違いや修正すべき点がありましたら、コメントやtwitterでぜひご指摘を。

なお、過去に世界史リブレット人の『マキァヴェッリ』の感想をまとめているのでそちらも参照していただければと思います。

先ほど言及した、誤情報のより効果的な訂正を引用しつつ、そこからマキァヴェッリにあうように文章を考えてみます。

効果的なデバンキング法
  • コアな事実:反論は事実を強調すべきで、誤情報を強調すべきでない。
  • 直接な警告:誤情報に言及る前に、文字もしくはビジュアルで、次に各情報が間違っていることを注意喚起すべきである。
  • 代わりとなる説明:デバンキングによってできた隙間を埋める必要がある。誤情報が間違っている理由についての、代わりとなる原因の説明や、さらには、そもそも誤情報の宣伝者が何故に宣伝しているのかを提示することで達成できる。
  • 図:コアな事実は可能ならグラフィカルに提示すべきである。

コアな事実:

「マキァヴェッリとは」
15世紀末から16世紀前半にかけて活躍した、フィレンツェ出身の人物。フィレンツェ共和国で官僚として政治・外交など多方面に活躍したが、政変により失職。失職後に有名な『君主論』『リウィウス論(ディスコルシ、政略論とも)』などを著す。
官僚時代はもちろん、失職後も政治に対する興味や関心が薄れない人生だったが、それ以外にも『マンドラーゴラ』などの喜劇の台本を著したり、私生活では冗談が多い愉快な手紙を書き残していたりと、多彩な一面をもっている。

「『君主論』とは」
君主がとるべき方策を簡潔かつ平明な文章で表現した、政策提言かつ君主処世訓。地盤が盤石であり、代々の王の政策を継承すれば良い世襲の君主と、地盤が脆弱で危地に陥りやすい新君主それぞれへの言及がある。おもな対象は新君主であるために、非常事態ではモラルにとらわれない非常の策をもちいるべしといった提言も多く、後世に「権謀術数を勧める悪徳の本」という誤解を招くもとにもなった。

直接な警告と代わりとなる説明:

「権謀術数という”誤解”」
権謀術数を勧め、著者本人も同様の手法を用いたあくどい人間であるという解釈がなされてきたが、本人はむしろ立ち回りが上手い方ではなく、政変の際にはあえなく失職。
失職後の就職活動もなかなか成功しなかった(もちろん本人の資質だけではなく、環境が悪かったという点は当然ある)。

「君主政を主張?」
『君主論』だけが飛び抜けて著名なために君主政の推奨者と思われがちであるが、共和政を強く指向した人物という解釈がマキァヴェッリの専門家の中でも有力。
実際、マキァヴェッリは「フィレンツェには共和政が適している」との提言を残してもいる。
政治思想の著作として、『君主論』ほどではないがあるていど知られている『リウィウス論』があるが、こちらではリウィウスのローマ史を中心に、共和政を論じている。

「イタリア統一を予見した愛国者?」
『君主論』は「イタリア統一」を熱望したとも読める文章で締められているため、後世に近代ナショナリズムにひきよせた解釈がなされることも多いが、近代的な価値観のバイアスで歪められた解釈であると考えられている。
マキァヴェッリにとっての「我が国」はフィレンツェ共和国であり、現代の統一イタリアを構想したとは考えにくい。「イタリア人の力を結集して外敵からの解放を」というメッセージは当時しばしば主張されており、外敵の追放・力の結集=ナショナリズムにもとづく近代国家ではない(例えば、イタリア半島に割拠していた複数の有力国家の連携・同盟による外敵の追放でもことは足りる)。


図でグラフィカルにというのは私にはセンスが無いので割愛します。
とりあえずざっくりとまとめてみましたが、果たしてこれがマキァヴェッリに関する誤解を解く一助となるかどうか。
甚だ微力とは思いますが、やらないよりはマシなはず(と思いたい)。

2015年12月16日水曜日

講談社現代新書『メディチ家』を読了

今回の読書は講談社現代新書の『メディチ家』です。

講談社現代新書『メディチ家』

講談社 森田義之著


今までルネサンス関係の本を何冊か読みましたが、振り返るとメディチ家メインの本で読了したのはこれが初めて。
講談社学術文庫の『メディチ家の人びと』を少しめくったことはありましたが、きちんと読まずに置いたままだったりで。
そちらの本は、あとがきによると、文学系の方が著されたとの由で、史実に即していないところもあるらしいので、だったら先に歴史研究者の本を読もうかなと思ったのも、こちらを先にした理由だったりします。

総評としては、難解でつまらないというほどでは無いけれど、若干説明不足か、あるいは詰め込みすぎというべきかと思いました。詰め込みすぎと感じるほどいろいろな記述があるのはある意味利点ともいえそうですが、新書としてはやはりある程度思い切って整理し、その分基本的な部分から解説があったほうが良いと思います。

とはいうものの、メディチ家の出自と紋章の由来、メディチ銀行の財務状況や組織の具体的な数字を挙げての説明や、初代トスカーナ大公コジモ1世に始まる近世のメディチ家の紹介は、興味深く読みました。
とくに、自身の興味の対象がマキァヴェッリ周辺なので、君主化以降の知識がかなり乏しかった部分の補完という点で参考になりました。

本筋とは関係ない部分ではありますが、「オスマン・トルコ」という表現や、通俗的なマキァヴェッリ主義的表現が用いられるのはちょっと気になります。良くあることなので仕方ないと思いつつも、やっぱり何とかならないかなあ、という気分が残ります(1999年初版の本としてはちょっと認識が古いかな……)。

2015年11月24日火曜日

世界史リブレット人『ガザーリー』を読みました

今回の読書も世界史リブレット人シリーズから。さっくり読めるボリュームだし次のblog更新は早めにできそうなどと思っていたのに、気がつけば随分と間があいてしまいました。

世界史リブレット人『ガザーリー 古典スンナ派思想の完成者』

山川出版社 青柳かおる著


世界史リブレット人シリーズのテーマ、「人を通して時代を読む」のとおり、今回もガザーリーの事跡を通じて中世イスラームにおける政治状況、思想の展開を見通す内容となっています。
彼以前のイスラーム史の概略を簡潔な説明でおさえたのちに(これがまさに簡潔というべきで、事前の知識がなくてもざっと流れが読み取れるほど)、彼の事跡やそこからの影響を受け発展したイスラーム神学・哲学・法学について紹介していきます。
最後の章は、現在のイスラームをめぐる諸問題の中でもしばしば論じられる、女性の権利とイスラームについてが中心のやや異色といえる内容でしたが、たまたまtwitterで話題になっていたテーマだったので個人的にはタイムリーなテーマでした。

総じて文章は平易で解説も豊富なため、一般向けである本シリーズとして及第点、平均以上の出来と思います。
イスラームに関心がなければガザーリーがテーマの本を手に取ることは考えにくく、関連知識がない人が読むことはあまり無さそうですが、イスラーム関連知識がない読者でも充分読めるのは美点だといえるでしょう。

(といいつつも。イスラーム法学と神学と哲学はそれぞれ複数の派にわかれているし、そもそもスンナ派はともかくシーア派は多数の宗派にわかれているので、そういった意味でのややこしさはどうにもならないですが。)

ガザーリーの業績のなかでも重要な、スーフィズム(イスラーム神秘思想)とイスラーム神学・法学・哲学との折衷・調和について、具体例や歴史的展開などの紹介がされた章は、本書を読んでいて一番興味深い部分でした。

形式的な信仰生活と内心の問題と、それに抗して神へ近づくための行動は他の宗教でもみられるものではあると思いますが(カトリックでも懺悔が一般的になる以前は、教会が個々人の内心に踏みこむことはなかった)、イスラームの場合は他者の内心に踏み込まずという原則があったので、その点で切実さがあったのかなあという気がします。
他者の内心を勝手に忖度せず、安易に不信仰者扱いしないという方針は信仰を理由とした紛争を未然に防ぐという点で効果的ですが、その一方では現世主義に陥らないための歯止めが効きにくいことでもあるのかなと。

神と個人との関係を追求するスーフィズムは、ガザーリーなどの貢献によって理論などの基盤が構築されたうえに、庶民が難しいことを考えずとも実践できる具体的な生活習慣と修行が整理されたので、俗世から離れる隠者のみならず、広く一般に広まることになりました。



2015年11月5日木曜日

再読 世界史リブレット人『マキァヴェッリ』

マキァヴェッリとその時代についての関連本である、世界史リブレット人シリーズの一冊、『マキァヴェッリ』を読み返しました。
過去にはじめて読み終えた際の感想はツイートしてありますが、blogにもまとめておきたいと思ったのも読みなおした理由です。

世界史リブレット人『マキァヴェッリ 激動の転換期を生き抜く』

山川出版社 北田葉子著

はじめて読んだ時にも感じましたが、コンパクトなボリュームのなかで、難解すぎずそれでいてほとんど過不足無く、マキァヴェッリの人生と周囲を取り巻く環境・時代をまとめられていると思います。
予備知識がそれなりにある状態で読んでいるため、さほど知識がないかたが読んだ場合はどうなのかは想像しにくいのですが、必要に応じて適宜解説がなされるので(紙面上段にあるので参照も容易)、おそらく難易度的には問題ないと思います。
通俗的なイメージに惑わされず、学問的に見たマキァヴェッリと、彼をとりまく環境を知りたい方にとっては手始めとしてふさわしい一冊ではないでしょうか。

以下、章ごとに簡単な内容の紹介をしていきます。

マキァヴェッリの虚像と実像

マキァヴェッリという人名にまとわりつく、「目的のためには手段を選ばない」「権謀術数」などの通俗的なイメージに対して、実際の彼はどうだったかがまずはじめに導入として語られます。
彼がどのような人物だったのかをちょっとみてみよう。もちろん頭は非常に切れる人物だが、いわゆるくそまじめなタイプではない。むしろ彼は、冗談好きで愉快な人物である。機知に富み、悪ふざけも辞さない。彼は貪欲に生を謳歌する。…そして彼は政治も好きである。同じ書簡に、追いかけている女の話とまじめな政治の話、両方書くこともある。ただし、まじめに政治を論じる時の彼は決してふざけはしない。 p.2
彼の性格や事跡・人生をざっと紹介しつつ、「マキァヴェッリの人生や思想をとおして、中世から近世へと移り変わる時代をみていく」ことが本書のテーマであることを明らかにし、以降の構成について説明をしていきます。
構成に付随して、本書によく登場する人物であるフランチェスコ・グイッチャルディーニが紹介されますが、彼はマキァヴェッリの著名な友人のひとりであり、人生を語るうえで必須といえるほどの存在といえます。
マキァヴェッリも彼も、政治の中に生き、政治から退いたのちに著作をなした人物であり、ある時期には行動をともにする同志でもありました。

①マキァヴェッリにおける伝統と革新

「伝統」とは、当時のフィレンツェ共和国に息づいていた人文主義のことです。マキァヴェッリも人文主義的な教育をうけ、長じてから著した複数の著作についても、文章の様式などに強く影響が残っています。
彼の受けた教育と育った環境という文脈を説明したのちに、一般的に「革新」とみなされる「政治とモラルや宗教の分離」という彼の特徴的な主張について簡潔な解説がされます。

本書の内容から離れますが、実は「革新」については論者によって解釈に幅があるようです。
天才性・革新性を強調する意見と、それに対して当時の環境や文脈を考慮したうえで再評価を行うといった議論はさまざまな史上の人物において行われることではありますが、マキァヴェッリについても例外ではありません。

②書記官マキァヴェッリ

彼が生きた15世紀末~16世紀初頭のイタリア半島の情勢の説明と、そのなかで彼が重ねたキャリアについて語られます。
外交使節としての働きについて、現在のようなスマートな外交は期待するべくもなく、当時の外交官が苦労したお金の工面や社交といった様々な苦労が紹介されます。
そしてもうひとつ、有名な業績であるフィレンツェ市民軍の創設について少し引用してみます。
〇六年の一月にはフィレンツェ近郊に自ら徴兵に出かけた。軍事訓練をおこなう担当者は、チェーザレ・ボルジアの腹心であったミゲル・デ・コレリャである。こうして同年二月十五日、カーニヴァルの日に閲兵式がシニョリーア広場でおこなわれた。それを見た市民ランドゥッチは、「フィレンツェ市でこれまでおこなわれたことのない素晴らしいものだった」と日記に記している。 p.35

(この部分、惣領冬実の漫画『チェーザレ』的なビジュアルで再現されるとさぞ華やかなシーンになるだろうと思いました。ミゲルをはじめとして登場人物はイケメン揃いですし)

華々しくパレードを行った市民軍は、長年にわたるフィレンツェ共和国の懸案であったピサ再征服の一翼を担い、まずまずの成功をおさめましたが、後に、
しかし一五一二年にフィレンツェ近郊のプラートがメディチ家の復帰を狙うスペイン軍によって襲撃されたとき、マキァヴェッリの軍隊にそれを防ぐ力はなかった。メディチ家のフィレンツェへの復帰後、彼の軍隊も解散されることになる。 pp.35-36
という、残念な結果に終わりました。政権は崩壊し、マキァヴェッリの官僚としてのキャリアも終わりを告げることになります(キャリア終了の部分は次章で紹介されます)。

本章のなかで、常備軍という用語がたびたび使用されている点は少し気になりました。市民によって構成された、常備編成されている軍隊という意味合いなのかもしれませんが、マキァヴェッリの市民軍を語る上では、若干そぐわない感があります。
彼が指向したのは領国内から徴発されて軍務につく市民軍ですが、一般的な常備軍は出身国を問わない傭兵を常時雇用によって国軍へ吸収されていく動きの中で形成されていったという印象が強いためです(常備軍の発展と傭兵は切り離せないくらいのイメージをもっています)。

③共和政と君主政

先述の通り、メディチ家のフィレンツェ復帰にともなってマキァヴェッリは書記局を解任され、さらには反メディチ運動を企んでいた人物のもっていた紙切れに名前があげられていたために、投獄され拷問をうける羽目になりました。ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ十世となったことの大赦で釈放されますが、1,000フィオリーニという高額の保証金の支払いを命じられます。
(参考:14~15世紀の大人の労働者の賃金が年平均30フィオリーニ程度、1427年ごろのフィレンツェにおける、大人一人の年間生活費が14フィオリーニ程度。『イタリア都市社会史入門』による)

保証金は友人などから借金をして支払ったようですが、職もなく多額の借金をかかえたために、フィレンツェ市内を引き払い、所有していた市外の田舎にある山荘へ引っ越すことになりました。のちにフィレンツェ市内にもどり「オルティ・オルチェッラーリ」という文芸サークルに参加することになりますが、この期間は正式な職を得ることができず、失意の時代といえるでしょう。

この間に書かれた『君主論』と『ディスコルシ(ローマ史論、リウィウス論などとも)』がマキァヴェッリの政治思想における代表作となりますが、前者は君主政を論じ、後者は共和政を論じています。 それぞれの政治思想のどちらをよしと考えたのか。彼の思想の一貫性について議論が行われ、さまざまな解釈を生み出すことになりました。
本章では鹿子生浩輝氏の『征服と自由――マキァヴェッリの政治思想とルネサンス・フィレンツェ』を紹介し、 マキァヴェッリの理想は共和政にあったとする説を採っています。

④歴史を見る目

この章では、マキァヴェッリがメディチ家から執筆を依頼された『フィレンツェ史』に関する話題を中心に、マキァヴェッリの時代認識を探っていきます。

1520年に、あのメディチ家から『フィレンツェ史』の執筆を依頼されました。『君主論』は、職を求めて、メディチ家の若君へ献呈した作品だったのですが、その際には直接職に結びつくことはありませんでした。が、今回は正式な契約が結ばれており、それ以前にマキァヴェッリが行っていたさまざまなメディチとの関係改善の手立てが実を結んだといえます。
とはいえ、メディチ家の歴史や政策のすべてに好意的であったわけではなく、『フィレンツェ史』を著述するにあたっても若干の婉曲的な記述を行わざるを得なかったようです。

『フィレンツェ史』にみえる彼の同時代認識は、危機の時代にふさわしく厳しいものでした。
マキァヴェッリは、同時代のイタリアそしてフィレンツェは堕落しているとする。…世界は腐敗しつつある。…彼は歴史の有用性を信じているが、「自由な精神が感動して見習うよう」な歴史は書けない。…もはやフィレンツェは、古代ローマ共和国の理想とはほど遠い、むしろその反対の腐敗の極みにあったというのが、マキァヴェッリの認識である。 pp.54-55
伝記として彼の人生をみるという視点では、この章の期間は先の章から比べて個人的な苦難はやや薄らぎ、かつての書記官時代ほどではないにせよ、彼が待ち望んだ政治の世界に復帰した時代といえましょう。

⑤近世の国家へ

この章では混迷を極め危機が深まっていくのと重なるようなマキァヴェッリの人生の終焉と、没後に訪れたフィレンツェの君主政への移行に関する話題がテーマとなります。

ハプスブルク勢力とフランスという強力な外国勢力に翻弄されるイタリアの危機に対し、マキァヴェッリは、教皇庁のロマーニャ総督などの重職にあったグイッチャルディーニとともに行動をおこしていました。
1527年に「ローマ劫掠」がおきたのち、フィレンツェからメディチが追放されたことを聞き及び、フィレンツェにもどってあらたな体制の中でも政治に関わろうとしますが、そこにはマキァヴェッリの居場所はなく、あえなく病死することになります。

本章はおそらく本書で一番特徴的な部分で、ありがちな伝記とは一味違った面白い視点を提供しています(著者の北田葉子氏は近世フィレンツェ、メディチによる君主政時代が専門のようです)。
マキァヴェッリ没後のメディチ家による君主国時代におけるフィレンツェのひとびとの意識の変貌と、それに対してマキァヴェッリの著作における共和政の民衆を君主政に馴染ませるための方策を照らしあわせ、中世の共和政国家から近世の君主政国家へと移り変わっていく様相を鮮やかに描き出しています。

以上、かいつまんで内容を紹介しました。
本書中の解説や説については、概ね納得しているものの、幾つかの要素についてはちょっと違和感をもったものもあります。
とはいえ、冒頭でしるした通り、なんといっても読みやすく、しかもきちんとした史学に基づいたコンパクトな伝記は得難いものであるので、本書の出版された意義は大きいと思います。



2015年11月3日火曜日

ちくま新書『近代中国史』の感想

今回の読書は前回の『「反日』中国の文明史』から引き続き、同じ中国もの。こちらは経済メインという違いはあれど、長期視点で中国文明の構造を読み解き、現在に至るまでの過程を解き明かしていくという点で同じアプローチといえます。

ちくま新書『近代中国史』

筑摩書房 岡本隆司著

ある程度の中国史の知識はあった方がわかりやすいとは思いますが、無ければ理解不可ということもなく、一般向け対象の新書として及第点といえると思います。

経済と題についている通り経済構造の解説が主ですが、なぜそのような構造が成立していったのかを探求するうえで、黄河流域と長江流域という大きく異なる環境による発展の違いや、儒教を含む文化面への考察など、純粋な経済以外の点についてもある程度目配りがされた内容となっています。

士大夫と庶民、官と民という二重構造によって、お上と一般民衆が乖離した体制、政府が社会保障を行わず(ある種の小さい政府といえます)、それらの機能を補完していた多数の民間の中間団体(血族による結合である宗族、宗教団体、同郷同業団体である幇や行など)が社会に不可欠だったという状況については多少知識はありましたが、多数の例を図や数字によって具体的に示されるとインパクトがあります。
これらによって生じた政府への懐疑と国民という一体感・信頼感の欠如は、近代国民国家の形成による産業革新や富国強兵を目指すうえで大きな障害となりました。

本書では用いられていないですが、中国における政府と庶民の間をあらわすものとして「上に政策あれば下に対策あり」という文が有名です。先述の政府とそれを構成する上層エリートと庶民の乖離が、現代に至っても解消しきれていないことを示す一例といえるかと思います。

肝心の経済構造についての議論ですが、あいかわらず経済は特に苦手でまとめにくいので、各自でご確認をお願いしたいと思います。
地域間決済の銀と地域内決済の銅銭や紙幣という構造については、岩波の『貨幣システムの世界史』を参照されるのも良いかと思います。本書にあらわれた近世・近代の中国はもちろん、それ以外の地域・時代の例についても参照できて、より深く掘り下げて理解したい方にはおすすめです(こちらの本はより専門的で難しくはありますが)。

以上本書について興味深かった点、面白かった点を(大雑把かつ適当ではありますが)紹介しました。

大筋とさほど関連のない些細な点ですが、若干気になった部分があったので記述しておきます。
「日本で経済成長といえば、「ものづくり」であり、技術開発である。「世界の工場」となった中国でも、もちろん製造業が盛んではあるけれども、創意工夫を旨とし先端技術を競う「ものづくり」を中国で想像することはおよそできない。自前の技術だと言い張って運行をはじめた中国版新幹線・高速鉄道は、その好例である。
そこからすぐ連想するのは、技術やパテント、あるいは著作権を尊重しない態度であり、いわゆる「パクリ」や海賊版が横行する現状も、その根源は同じだろう。それでどうして高度成長が可能だったのか。日本人の感覚では、どうにもわかりにくい。」p.12
引用部分は中国と「パクリ」に関するよく見られるタイプの言説ですが、安易な日本との比較論は妥当性を欠くような気がしてなりません。「現在の」日本では著作権の尊重は当然であり、技術・デザインなどの剽窃は非難されてしかるべきと考えられていますが、「高度成長」期の日本においても果たしてそうだったでしょうか。

文献を引用して指し示すことができないので説得力に欠けるとは思いますが、日本の製品がブランドを確立する以前においては、アメリカやヨーロッパ諸国の先行するブランドの模倣はしばしばみられたことだったように思います。市場に受け入れられている商品のコピーを廉価な労働力で製造することは近年の中国のみならず日本の成長期においてもみられた現象であり、さらに広く世界を見渡しても他に例を挙げることが可能な、後進国の製造業において普遍的にみられることなのではと考えます。

製造業以外についての著作権の尊重に関しても同様です。30年以上前の話ですが、会社で使用する事務用アプリの複数台使用は当たり前で、1本購入した後はコピーを配布し、事務所内の他のPCでも使用していました。使用台数分のライセンスを購入せずに済ませていたのはごく普通の「感覚」であったそうです。娯楽用途であるPCゲームソフトにおいてもコピーが蔓延していたのは、一昔前のゲーム事情にある程度関心がある方はご存知だと思います。

もちろん、現代のように著作権にたいして意識が高くなった時代における中国の例と日本の成長期を同じ基準で比較するのはおかしいという指摘は正当と思いますし、中国における著作権問題を免罪したいわけでもありません。それでも、引用部のような、日本人と中国人の感覚の違いという、印象論めいた安易な比較への反証として、一定の価値があると考えます。

この節を記述していて思い出したのですが、『「反日』中国の文明史』にも同じようなニュアンスの言説が載せられていたような(ガンダムコピー云々だったかな?)。日中の差異を強調するうえでわかりやすく、使いやすいのかもしれませんが、問題のほうが多い説明の仕方のように思います。