2015年10月17日土曜日

『西欧中世史〈中〉』、「ローマ・カトリック秩序の確立」の感想

今回も引き続き、『西欧中世史〈中〉―成長と飽和 (MINERVA西洋史ライブラリー)』の読書で、「1 ローマ・カトリック秩序の確立」についての感想をだらだらと。

楕円ヨーロッパという図式

「一 「グレゴリウス改革」「叙任権闘争」の時代から」中に、
「「叙任権闘争」像は、中世ヨーロッパ世界の構造を皇帝と教皇という聖俗の最高権力にある楕円的構造とみなす理念的な理解に適合的なものである。」p.53
とあります。この図式はしばしば見かけた記憶がありますが、うろ覚えなのであらためて検索してみました。
ウィキペディアの「普遍史」によると、フライジングのオットーの著作からあらわれるようです。
彼について載っていそうな本を探し、見つかった箇所について引用します。

先に引用したウィキペディアでも紹介されている、講談社現代新書、岡崎勝世著『世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで』から。
「コンスタンティヌス帝以後の歴史の意味を、「混合状態の教会」が発生し、それが完成し、そして崩壊に至る時代としました。かれのいう「混合状態の教会」とは、皇帝と教皇という二つの焦点を持つものとしての「ローマ帝国」を意味します。当時まだ「中世」という言葉はありませんでしたが、かれは、中世世界をいわば「楕円ヨーロッパの時代」として意義付け、それによってローマ帝国を再編成して、中世的普遍史を完成させたのです。」p.86
ミネルヴァ書房、佐藤眞典著『中世イタリア都市国家成立史研究』から。
「彼をもっとも有名にしたのは中世盛期の、特に十二世紀のカトリック的な哲学思想を象徴するような作品『両国年代記(Chronica o historia de duabus civitatibus)』(一一四六年)を書き残したことである。彼は、この八巻からなる作品の中で、創世記から彼の時代の現代までの発展を叙述した。あたかも帝国の首都ローマが西ゴート族によって侵略された危機がアウグスチヌスに『神の国(Civitas dei contro paganos)』を書かせたごとく、叙任権闘争後の教会と国家の分裂が、また十字軍などによる危機への対応の失敗が、オットーにこの『両国年代記』を書かせた。この作品では、世界史の発展が二元論で説明され、結論的には神の国の永遠性に向けて歩み始めることを表示して終わる。」p.29
フライジングのオットーはこの年代記の時点では悲観的・終末的な思想を抱いていたようですが、フリードリヒ1世バルバロッサの伝記である『フリードリヒの事跡』を著したころには悲観的な見方は若干後退したようです。
「この暗黒の時代にどこから光がさしてくるか、シュタウフェン家の興隆が帝国自体の興隆と連関していると言った暗示が、一〇年以上前に書かれた『両国年代記』よりも、この『事跡』をより明るいものにしている。」p.34

「ニ 教皇庁の組織化」、枢機卿団と教皇のかかわりについて

「世襲される世俗の君主に比べ、一般に教皇は高齢になってから登位し長く在位することが期待できないので、枢機卿団という集団指導体制は教皇庁の安定化に役立った。そして、必ずとはいえないが通常枢機卿の中から教皇が選出されるため、ローマ教会を指導する経験を積んだ人物が教皇となることも、円滑で継続的な教会統治体制を作り上げることにつながったのである。」p.58
このくだりを読んで連想したのがヴェネツィア共和国のドージェ(総督)の事情でした。
ドージェは、元老院に属し政府の重要役職に複数回任ぜられた経験があるような名声高い貴族が、高齢になってから最終的にキャリアの「あがり」という感じで選出されていたと思うので、在位期間の短さ、指導経験がある人材プールから任命されるという点で似通っていると感じます。教皇とドージェ、双方ともにおおむね終身職とみなされているという点でも同様かと(教皇の方は少数例外があった気はしますが)。

「五 最近の教会史研究」から、ローマ教皇庁と教皇領について

「ローマ教皇庁についても、…従来退廃の極みのように扱われてきた一一世紀前半までのローマ教皇庁も、ローマ教皇領に一定の領域支配体制を作り、収入を確保する地方貴族による領域再編成策によって財政的な基盤を得る体制づくりが出来たことが明らかになった。それは、普遍的な教会への脱皮という図式のなかで悪しき存在とみなされがちであったローマ貴族とのつながり、教皇領といったローマ教皇庁の世俗支配に関わる部分についても、見直しを迫る意味を持っている」p.73
教会の世俗支配=腐敗という図式は原則論では正しいうえにわかりやすいですが、当時果たした機能を検討し、実態はどうであったのかまで考えを巡らせたほうが得られるものが大きそうです。
教皇領は、実質的な支配はそのときどきで差があったにしろ、あれだけの長期間存続したわけなので、それには相応の理由もあれば必要性もあったのだろうと思います。


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